中世武士の興亡と能美水軍
中世は武士の時代であり、中央においても地方においても
武士勢力が興亡を繰り返した戦乱の時代である。
瀬戸内海においては、荘園年貢の輸送を中心とする内海水
運が発達し、沿岸や島々に根拠地をもった豪族の勢力を伸
長させた。彼らは強大な海上勢力をもち、水先案内料や通
過料を強要したり、沖合を航行する船を襲撃した難破船と
称して押領したりしたので、海賊衆と呼ばれ恐れられた。
海賊衆は内海航行者と契約し代償を得て警固に当たったの
で、警固衆とも呼ばれた。更に海賊衆のなかには遠く外洋
に出て、いわゆる「倭寇」として、朝鮮や中国の沿海を騒
がしたものも少くなかったようである。
内海方面において最初に勢力を扶植した武士勢力は平氏で
あり、特に清盛が安芸守になってからは芸備の海上勢力と
強固な関係を結んだ。しかし治承四年(1180)源氏の
武士団に追われて都を逃れた平氏は、内海地方を背景に抵
抗したが及ばず、壇の浦の藻屑と消えた。この時芸備の武
士たちの多くは平氏に参じ、平氏と運命をともにしたもの
もある。なお平氏の落武者は内海の沿岸や島々に逃れたも
のも多かったと言われている。
平氏な代わった源氏は鎌倉御家人を守護や地頭に任命し諸
国や荘園を支配した。源氏の後を継いだ北条氏は大陸(宋
、元)との貿易を重んじ、その貿易ルートである内海の水
運を確保するため海賊衆統御に力を入れ、沿岸の地頭に海
賊追捕の重任を負わせた。しかし元寇(十三世紀後期)以
後鎌倉幕府の統制力が弱まり、海賊衆の活動が活発となる
と、守護や地頭らは海賊衆の勢力と結んで、その政治的発
展をはかろうとした。鎌倉時代末の元応元年(1319)
には、幕府は内海沿岸の地頭・御家人に対し、海賊と結託
することなく、その取締りに協力するという起請文を提出
させると共に内海沿岸の要所に警固詰所を設け海上警固に
当たるよう命じている。
南北戦争乱期(十四世紀中頃)には、内海海賊衆は概ね南
朝側に味方した。南朝側の北畠親房からの強い働きかけが
あったためでもあるが、足利政権が強くなることによる統
制強化への抵抗ということが考えられる。海に生きる海賊
衆は海の自由を求めたためであろう。
室町時代から戦国動乱の時代(十五〜十六世紀)になると
海賊衆は幕府や守護大名から水軍として雇用された場合が
多く、海賊衆の働きが政治的にも大きな意味をもってきた
のである。
以上が瀬戸内水軍が武士勢力の興亡とどんな関係をもった
かについて概観したが、ここで能美水軍の働きや活躍はど
うであったのであろう。
千数百年前から海に依存して生活した海部の伝統をひく能
美島の人々は、鎌倉時代の中ごろから能美庄の荘官を世襲
した士豪の能美氏に率いられ、農耕や漁業に従事すると共
に所謂海賊衆として海上で活躍したものと考えられる。
海賊衆の活動が活発になったのは、南北朝時代からである。
このころ瀬戸内海西部では、伊予河野氏に率いられた伊予
衆(伊予の海賊衆)が北上し、周防・安芸・備後の島々を
勢力下においた。江田島の久枝氏は河野氏の庶家久枝氏が
北上したものである。能美島の能美氏は河野一族と再三の
婚姻関係を結び、後には河野氏の支流と称している。
南北朝動乱期には、内海海賊衆は前述したように概ね南朝
方に味方したが、能美水軍は延元元年(1336)征西懐
良親王が九州に下る途中、いち早く南朝側に中順を誓って
いる。さらに伊予の河野道朝が北朝側の細川氏に敗れたと
き、その子通堯は懐良親王を頼って九州に渡る途中、正平
二十年(1365)能美島に立寄り能美氏の庇護をうけた。
それは通堯に随順した武将久枝氏の北方(妻)が能美氏の
一族中村十郎左衛門所縁の者であったからだという。この
とき中村十郎左衛門は通堯一行を三吉浦で三ヶ月間かくま
い、次の戦争準備を支援したのである。
群雄割拠の戦国時代(十五〜十六世紀)能美島の周辺では、
広島湾頭の海上権をめぐり武田氏・大内氏・毛利氏らの間
に抗争が繰り返されたが、その間、能美氏の海上勢力が水
軍として活躍した。
山口の守護大名大内氏は防長の本国と南北朝時代以降保持
した安芸国東西条の所領を連絡するため、安芸国に進入し
広島湾沿岸及び島嶼部、竹原に至る海岸部を勢力下におい
た。能美氏は大内氏に臣従し水軍として戦功を立てている。
応仁の乱(1467〜1477)に際しては大内政弘の軍
に参加し、倉橋・呉警固屋の海賊衆と共に先陣をうけたま
わり、その後応仁の乱が終わるまで兵庫津の警備に当たっ
た。
応仁の乱後、安芸国をめぐる勢力関係は大内・毛利の連合
軍対尼子・武田の連合という形勢で両勢力の間に抗争が繰
り返された。
大永二年(1522)大内義興は佐東金山城に拠る武田氏
の勢力を広島湾から排除するため大軍を進発させた。この
時能美 政忠は倉橋の多賀谷氏と共に水軍を率い上八屋(
今も広島市竹越町)を攻撃し、戦果をあげている。